その足で、施工中の現場へ向かった。 5月のオープンということもありほぼ完成していた。 それは、今までに見たこともない異次元の空間。
青山トキオがクローズし、次のバイトを探していた1987年4月。 Lexington Queenから六本木交差点に向かっていたとき、トキオのスタッフにバッタリ出くわした。 「トゥーリアのオープニングを手伝ってほしい」、とのこと。
店内は8割が外国人。そのほとんどがTOKYOコレクションや雑誌の仕事で来日したモデル達。
彼女(彼)たちは、フロントで「コンポジットカード(写真、名前、モデル事務所の名前、電話番号などが記載されている。いわばモデルの名刺)」を見せるだけでフリーパス。 だから、日本滞在中は毎日のように店に顔をだす。1シーズン仕事をこなしたら帰国してしまうので1-2ヶ月で顔ぶれがガラッと替わる。
だれもが陽気でリラックスした雰囲気が好きだった。
そういえば、若かりし日の佐藤浩市さんがよく深夜にふらっと一人立ち寄られ、バックギャモンを楽しんでいました。
小野寺さん、印南さん、伊吹さん、中澤さん、Yoshiさん、大塚さん、DJアツシさん、JUNさん 店長以下スタッフ全員人間味あふれ、魅力的で素敵な方々でした。
それにしても、半年後の1988年1月にバリライトが落下し、閉店するなどとは、誰が想像したであろう。
絵を描くようになってからアヴァンギャルドな路線をたどり、最終的にはアパートの原型をとどめない姿となった。 退去時には、まる1週間かけて現状復帰に努めたが、当然のごとく敷金は還ってこなかった。 
「TOKYOへは、バイクで行こう」そう決めていた。 予備校に通いながら免許をとった。 前日納車されたバイクで500kmツーリング。
1984年3月。 僕のTOKYO LIFEがはじまった。 今でも、バブル絶頂期までの5年間の記憶はシナプスに鮮明に刻みこまれている。 
ビジュアルイメージ・デザインを手がけたのは、シド・ミード。 当時、あの空間に足を踏み入れたら絶句しない人はいなかったであろう。フロアは3階建ての吹き抜け。キャパ800人という。 トゥーリアが軌道に乗るまで1ヶ月ほどヘルプに入った。
六本木 トゥーリア(TUREA)
店のオープンはPM6:00頃。  7時をまわるころからちらほら人が入り始め、ピークは10時過ぎから深夜2時ごろ。 閉店時間は未定。 誰もいなくなったらクローズする。 だいたい朝5時ぐらいだったと思う。 近くのファーストフードショップで始発待ち。
客足が途絶え2時ごろにクローズすることも月に2-3回はあった。 そんなときは、塒のある池袋まで歩いて帰るハメになる。
文京区小石川(茗荷谷)の学生寮(竹早寮)で1年間過ごしたのち、池袋での一人暮らしが始まった。家賃28,000円の4.畳半一間のアパート。 最初は、モノトーン基調のシックな部屋だったが、、
1982年にオープンしたマハラジャや90年代にオープンしたジュリアナなどの大箱とは、まったく趣の違う、隠れ家的でエキゾチックなすごくいい店でしたが、1987年4月に閉店。
南青山 骨董通りが246に交差する青山5丁目交差点の50mほど手前に、TOKIO(トキオ)はあった。アイサワビルの地下1階。1986年から87年にかけてバイトした懐かしい場所。毎日がエキサイティングだった。
南青山 トキオ(TOKIO)